少しばかりの

 そろそろ、自主ゼミのレジメ内容を準備しなければ
いけないなと思う。けど思うだけ。


 身体論として、私の身体の意識的・無意識的・制度的な
所有者は一体誰よ?ということから、私のテーマが始まっている。


 とりあえず、管理・統制されるパーツ化した、受身の
身体から、表現するある意味攻撃的な存在主体である身体の想定。
解放の手段足りえるパフォームする身体なんてところに行きたい
とは思っている。


 けど、その前に避けられないと思っているのが、一般化された身体としての
ジェンダー。対立する性として、二元論的に定義され続けてきた男・女。
実際の男女共同参画(なんでわざわざ、男と女って文字を出してるのか並列な
「人」でいいじゃん)もそこから発生して、今まさに行政的な枠組みとして
私たちをとらえ始めている。
 ということで、関連の本を読み始めたら眠ってしまうという悪循環な今日この頃。


 「自由」なんて言葉を簡単に吐けないほど、自由の境界線が曖昧になっている。
最近、菊地君の話を聞いたり、彼の文章を読ませてもらったりして思った。
それは、見えない大きな枠組みに、実際の息苦しさや、理不尽さ、怒り、不安
絶望が絡めとられているねじれ感覚。
 問題感知の皮膚感覚すら、無自覚にコントロールされているのかもしれない。
 

 整体のしんご師匠もいうこのねじれ現象は、私たちの身体観を、即物的なもの
として消費させ、ことの本質を見失わせてしまう。
 見えないものほど恐ろしい。


 おばけも怖いけどね。


 関係ないけど、「ブレードランナー」が見たくなった。