お勧めの演劇

青年団「ソウル市民」
劇作家・演出家である平田オリザさんが率いる『青年団』の演劇を観たのは、2000年の3月4日、川西町のフレンドリープラザでだった。客席は舞台上に置かれ、役者と観客とが非常に近い距離で接するような配置になっていた。
芝居は静かな台詞の連続で始まる。舞台上では、同時多発的に、役者同士の会話が紡がれ、物語は明確に存在するのでなく、人々の言葉によって構成されていく。
舞台は日本による完全な韓国併合前の1909年夏。ソウルで文房具屋を営む篠崎家。激動する時代の中で、一見そうした喧騒とは無縁な時間が流れていく。日本から後妻に入り、いつまでも朝鮮の生活になじめない母。自分が何をやりたいのか判らない長男。文学に青春を燃やす長女。大陸浪人をはじめとする、何をやっているのか判らない書生たち。そうした会話にじっと背を向け、黙々と働く朝鮮人のメイドたち。
朝鮮人は、タコ食いますかね。」、「朝鮮の言葉じゃ、文学が生まれるわけないのよ」
「二人で居るときぐらい、朝鮮語でしゃべったら・・・」、「そんなこと言われたって、   
 ねえ」
淡々とした会話の中に、無意識の差別が織り込まれ、「悪意なき市民たちの罪」が淡々と描きだされる。侮蔑的なセリフは、ニコニコした日本人によって、悪意なく語られるが、そのことがより一層、人間の愚かさを浮き立たせている。
この演劇をみていると、まるで箱庭を覗いているような気分になる。私たちは、映画やドラマを観るように、安穏と提供されるストーリーを追うことができない。舞台上では、あちらこちらで同時多発的に会話が進行していく。メイド同士の会話や、子どもたちの会話、主人と書生との会話や、客人との会話。それが刻一刻と変化し、展開していく。
観客が読み解くべきは、登場人物たちの対話だ。また、対話の中に織り込まれていく、人間関係の権力構造だ。作者は、私たちの日常を舞台にあげることで、強制的に私たちに、自分自身の姿を再確認させていく。
私たちの一番の罪は、無知であることかもしれない。歴史的な無知。政治的な無知。そして、日常的な無知とは、何かを知る機会が与えられないのだと、たかを括り、自分から知ろうとしない有り様だ。私たちが感じる生(いき)苦しさは、実は、無知である自分たち自身で作り上げているのかもしれない。日本にはもう、一律であり、唯一である幸福な物語などは、存在しないのだから。ソウル市民をみて、そんなことを考えた。