自然と社会

 切迫流産気味で入院し、まだしばらく自宅療養をしています。
赤ちゃんはいたって元気だけれど、環境としての子宮から少しの
出血があり、大事をとっての療養。
出血自体はきっと何かを調整しているのでしょうが、私の身体は、
産むという大事業へ向けて着々と模様替えをしているようです。


ここにきて、改めて思うことは、産む性を授かったことで強烈に
意識させられる「自然」について。


自分の意思ではどうにもできないもの。
自己の所有物というエゴでは、到底コントロールのできない身体的な
「自然」が、人間には備わっているいるのだという実感。
それは、わくわくする新鮮な実感でした。
「自然」と対峙するとき、私は謙虚になり、また畏怖と尊敬をもって
自分の「自然を内包した身体」と接します。


けれども、そうばかりも言っていられないのが原状。自分と対話
する時間ばかりはもてないのです。そう仕事に行かなければならない
・・・。


『コントロールしやすいように作り出した人口的なシステムの総体』
現代社会だとすると、範疇外の「自然」を宿した身体は、その社会と
いい意味でも悪い意味でも相対してしまう。
自己の自然を探り、内観を観ていこうとする行為と、社会的に人の都合
に自分を併せていく作業のずれること、ずれること・・・。
仕事を続ける中で、もっかの悩みです。


話は変わりますが、つわりの中で食べ物と命の関係についても沢山の
発見と学びがありました。


基本的に妊娠初期にでるつわりの中では、食べられない。
食べても吐いてしまう。


これもコントロール範疇外の自然で、食べてみないと身体が何を受け入れる
のかまったくわからない。
それでも2ヶ月を過ごすと、少しづつ、食べ物と身体の関係性が実感として
わかってきます。
あくまでもこれは私の実感なので、他の方では、また別の実感があると思いますが、あきらかに、つわりの時期、私の身体は私の身体を掃除している。


出血しているときには、腸で造血するためなのか味噌汁が美味しく、
また、赤ちゃんの命をつなぐ血液をきれいにしているのか、玄米の
梅干おにぎりや、小松菜やとれたての葉物がすっげ〜うまい。


これは、もう実感ですが、過去の記憶や舌先ではなくて、身体レベルで
うまい!と感じるものを少量取る分には、全然気持ち悪くならないし吐
かない。


そればっかりというわけにはいかないので、おっかなびっくり実験中
ですが、自然な食生活という定義は、敏感な妊娠中だからこそ、しみじみ
重要だと感じます。